Dr.平石の保健室
② 入来祐作君との出会い
患者さんとの出会いは、偶然が偶然を呼んで、お互いの人生の中でも頼りにされて、命の炎を燃やすことはしばしばある。
かって、私は東都リーグ1部の名門亜細亜大学の硬式野球部のチームドクターを長く担当していた。たくさんの若者たちのエネルギッシュの練習や試合の通じて、親交を深める選手もいる。

入来祐作君(現オリックス投手コーチ)とは、なんと30年間、まるで親子も関係が続いている。PL学園から亜細亜大学へ進学してきた彼は線の細い投手であった。大学時代の村田捕手とよく六本木の平石クリニックへ、日の出町の野球部グランドから、はるばる治療にやってきた。治療後の帰寮はいつも僕が寮まで車で送って帰った。携帯電話もない時代に、治療で遅くなりますとマネージャーに伝え、何か食べて帰ろうか?ト聞くと必ず肉が食いたいです」と応え、八王子インターを出ると滝山街道のレストランで分厚いステーキをご馳走しながら、帰った。六本木から往復3時間のドライブ中には、三人でいろいろ野球の事とか将来の夢を語ったものでした。
名門PL学園卒の彼は期待されたが、4年生の時、右肩血行障害で手術を受け、ドラフトには指名もされず、本田技研の野球部と進む。アトランタ五輪では、日本代表として活躍、本田技研で都市対抗大会では優勝し、橋戸賞の栄光を引っ提げて1996年巨人ドラフト1位入団、エースとして活躍する。疲労が溜まると、深夜川崎の自宅まで、ニンニク注射の往診をしてあげた。輝かしい巨人のエース時代から、日ハム・NYメッツ・横浜ベイスターズの投手を続け、打撃投手や用具係までもして、あの熱い野球熱は冷めることはことはなく、ソフトバンクのコーチから今年はORIXのコーチで、泥まみれに野球をしている。

なかなか連絡が取れない時期もあったが、偶然にもPL高剣道部の同級生から携帯電話番号を知り、速攻で連絡をした。東京の遠征時にわざわざ六本木のクリニックまで、訪ねて来てくれた。再会した時にはお互い抱き合って、「入来!」「先生!」としばらくは号泣してお互いの苦労を慰めあった。その後事あるごとに連絡しあい、関東での2軍試合にも、応援に行った。昔、よく肉を食べたよなぁ!と懐かしんだ。

華やかな巨人エース投手から打撃投手や、プロ野球の用具係まで根性を見せつけた入来君のこそ、真のスポーツ選手である。スティーブジョブスの動画を送った僕に、1/30に彼からLINEが届いた。
「先生、今年で50歳になります。先生に出会ったのが、21~22歳くらいだから、もう30年くらい経つんですね。先生に出会った事、心から感謝しています。本当にありがとうございます。
いつも綱渡りのような人生ですが、今年の精一杯頑張ります。また会える日を楽しみにして日々を過ごしていきます。先生も体に気を付けてお過ごしください。なぜか、LINEしながら涙が出てきました。(泣く)よっしゃ!今日も一日頑張ります。」
そして、翌日のLINEは
「先生、いつも先生に助けて頂いて感謝しています。また明日から野球の一年が始まります。将来に大きな夢を持った若い選手たちのちからになれるように先生にいつも温かく見守っていただいたように僕も背中を押していきたいと思います。ありがとうございます。」(原文のまま)
こんな文章をいただくと、僕まで泣けてきます。
平石クリニックでは、患者さんの面倒を診ると、私は心に決めています。どんな難しい病気であろうと、できる限り寄り添い、可能な限り、助けたいと決めています。